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|J.CHAPELの歩みの物語
J.CHAPELが始まるまでの歩みの中
みことばがどのように道を照らしてきたのかを分かち合いたいと思います。
A JOURNEY TO AVAD
聖書の中で、主は民をただ解放するためではなく、
主に仕え、神を礼拝する者(עָבַד:アーバド)
として生きるために導き出されました。
あなたが民をエジプトから導き出したとき、
あなたがたはこの山で
神に仕える(עָבַד:アーバド)であろう。
ー 出エジプト記 3:12 ー
私たちの歩みもまた、
その招きの中に置かれてきたように思います。
私たちは、みことばに導かれながら、
主こそが私たちの主であるという恵みの中で
一歩ずつ進められてきました。
自分たちの判断や勢いによるのではなく、
主の前に立ち、主に仕える者として歩むことが
この旅の出発点でした。
振り返ると、その導きは一貫して
「主なる神様が与えてくださる約束」
「主ご自身がもたらされる回復」
そして、
「決して変わることのない神の契約」
そうした聖書全体に流れる物語の中に
静かに、しかし確かに置かれていたことが分かります。
LOOK UP AT THE STARS
ー 何も見えないところで語られる将来ー
「天を仰いで、
星を数えることができるなら、数えてみなさい。
あなたの子孫はあのようになるでしょう。」
ー 創世記15章 ー
聖書の中で、神様はアブラハムに
「空の星を見なさい」と語られました。
それは、すでに子孫が増えていたからではなく、
何もない段階で与えられた約束でした。
神様の働きは、完成してから語られるのではなく、
まだ見えていない将来を、
先に約束として示すことから始まりました。
この原則は、私たちの歩みにおいても変わりませんでした。
GET BACK TO HIM
― 失われていた民を、主がご自身のもとへ取り戻される ー
あなたの天幕の場所を広くし、
あなたのすまいの幕を張りひろげ、
惜しむことなく、あなたの綱を長くし、
あなたの杭を強固にせよ。
あなたは右に左にひろがり、
あなたの子孫はもろもろの国を獲、
荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ。
ー イザヤ書54章 ー
ここで命じられているのは、
満ちてから広げることではありません。
まだ空いている状態で、住まいを広げることです。
その理由は明確です。
「荒れすたれた町々をも住民で満たす」
回復は、
人が集めることによって起こるのではなく、
主ご自身が満たされることによって起こる
と約束されています。
さらにイザヤ書54章で主はこう語られます。
恐れてはならない。
あなたは恥じることがない。
ー イザヤ書54章 ー
過去の失敗や荒廃が、将来を決定しないこと。
回復とは、
状況が整うことにとどまらず、
失われていた存在と関係が、
主によって回復されることだと、聖書は語っています。
SAME GOD
― 主のいつくしみは移ることがない ー
神様は、回復の約束を
ご自身が結ばれた契約が決して動かされない
という事実に基づいて宣言されました。
山は移り、丘は動いても、
わがいつくしみはあなたから移ることがない。
ーイザヤ書54章ー
環境が変わり、状況が揺れ動くことはあっても、
主のいつくしみと、主が結ばれた契約そのものは、
決して揺るがされません。
私たちの希望は、
感情や成功、目に見える結果に置かれているのではなく、
変わることのない主の契約に置かれています。
I WILL PRAISE THE LORD, NO MATTER WHAT
― 息あるものはみな、主をほめたたえよ。 ―
詩篇150篇は、
理由を重ねることなく、こう呼びかけて終わります。
「息あるものはみな、主をほめたたえよ。」
ここで語られている賛美は、
何かがうまくいったから捧げる感謝ではありません。
主を賛美することそのものが、
私たちの存在の目的である、という告白です。
主を賛美することが
喜びや力を生み出すのではありません。
主ご自身が、喜びであり、
力であり、すべてであるから、
私たちは主をほめたたえます。
礼拝は、
気持ちを高めるための行為ではなく、
主ご自身と向き合い、
その方とひとつにされていく場所です。
だから、
「問題があるけれど、主がいるから大丈夫」
というよりも、
主ご自身が、すでに喜びであり、平安である
というところに立ちます。
その方と共に歩むことができるなら、
状況が揺れても、
私たちは揺るがされません。
賛美は、現実から逃げるためのものではなく、
現実のただ中で、
主が誰であるかを告白することです。
息あるものとして、
主の前に立ち、主をほめたたえる。
そこに、
理由を超えた喜びと、
揺るがない平安があります。
だから私たちは、
どんなときも、
主を賛美する歩みを選び続けます。
LIFT UP THE STAFF
― 主が先に進まれ、道を開かれる ―
出エジプト記14章で、
イスラエルの民は、
前には海、後ろには敵
という状況に立たされました。
そのとき主はこう語られます。
「主があなたがたのために戦われる」
同時に、主はモーセに命じられます。
「あなたは杖を掲げ、
あなたの手を海に差し伸べなさい。」
海を割られたのは主であり、
人に求められたのは、
力で状況を変えることではなく、
主に信頼して従う一歩でした。
この「杖を掲げる」という行為は、
人が何かを成し遂げるための道具ではなく、
主の力と臨在を仰ぎ見るしるしとして与えられています。
私たちはこの姿を、
十字架を掲げることの象徴として受け取ります。
自分の力や知恵を誇るのではなく、
主がすでに成し遂げておられる救いと勝利を仰ぎ見ること。
道は、見えてから進むものではありません。
主に信頼し、
十字架を仰ぎ見て歩む中で、
その道は主によって備えられていきます。
そして聖書は、
その「道」が単なる進路や手段ではなく、
主ご自身であることを明らかにしています。
「わたしが道であり、真理であり、いのちである。」
イエス・キリストは、
私たちの前に道を用意される方であるだけでなく、
ご自身が、私たちの進むべき道そのものです。
だから私たちは、
道を探して歩くのではなく、
道であるキリストと共に歩む者とされていきます。
JOY TO THE WORLD
― 全地よ、喜びをもって主を迎えよ ―
詩篇96篇は、
全地に向かって喜びの声を呼びかけます。
「全地よ、主に向かって歌え。」
「喜びをもって主の前に来たれ。」
その理由は、はっきりしています。
主が来られるからです。
主が、王として来られるからです。
ここで語られている「裁き」は、
人間的な裁きではありません。
だれかを切り捨て、
優劣をつけるためのものではありません。
それは、
十字架によってすでに示された、
神の義と憐れみの完成です。
私たちは、
自分の基準で測られる者ではなく、
神の基準の中に生かされる者とされました。
罪は、すでに十字架で裁かれ、
私たちは、赦しといのちの中に招き入れられています。
だからこそ、
主の裁きは、恐れではなく、喜びを生み出します。
「主が王となられる」という宣言は、
世界の終わりを告げる言葉ではありません。
世界が本来あるべき姿に回復される完成の宣言です。
これ以上の恵みはありません。
主が王であり、
私たちがその御支配の中に生かされること。
それこそが、
聖書が語るゴールであり、私たちの希望です。
だから、
全地は喜びます。
天も、地も、海も、野も、
すべてが主をほめたたえます。
主は来られる。
主は王となられる。
JOY TO THE WORLD
それは、
世界に主が来られるという、
最大の喜びの宣言です。
LIVING HOPE
― 十字架を通って響く、勝利の声 ―
聖書は、勝利された方を
「ユダの獅子」と呼びます。
しかし、その獅子は、
暴力や恐怖によって勝利する存在ではありません。
ユダ族から出た獅子、
ダビデの根が勝利した
ー ヨハネの黙示録 5:5 ー
黙示録でヨハネが見たのは、
ほふられたかのような小羊でした。
十字架を通り、
死を引き受け、
復活された方こそが、
ユダの獅子です。
その獅子の声は、
恐ろしい叫びではありません。
怒りの咆哮でもありません。
澄みきった、圧倒的なきよさの声です。
光はやみの中に輝いている。
そして、やみはこれに勝たなかった。
ー ヨハネによる福音書 1章 ー
その声に包まれるとき、
闇は抵抗することができません。
論じることも、立ち向かうこともできず、
ただ耐えきれずに崩れていきます。
それは、
力による勝利ではなく、
十字架を通して確定した勝利だからです。
引き裂かれ、ただ一人となられた方。
罪によって隔てられた世界のただ中で、
夜もすがら天を仰ぎ、
主の名を呼び続けられた方。
王の王が栄光を捨て、
罪をまとい、
十字架によって赦しを告げられました。
そして、
約束の朝が来ました。
死せるイエスは息づき、
獅子の声が、静寂を打ち破りました。
それは、
新しい戦いの始まりではありません。
すでに成し遂げられた勝利の宣言です。
ユダの獅子は、
小羊として勝利されました。
だから私たちは、
恐れではなく、
賛美をもってこの勝利を受け取ります。
Jesus Christ, my living hope.
SHEAVES OF JOY
― 回復を、信仰によって先に見る祈り ―
主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。
その時
『主は彼らのために大いなる事をなされた』
と言う者が、もろもろの国民の中にあった。
主はわれらのために
大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
ー詩篇126篇ー
詩篇126篇は、
主が回復をなさるときに起こる、
抑えきれない喜びを歌っています。
それは、
静かな安心ではなく、
「まるで夢を見ているようだ」
と言わずにはいられないほどの、
驚きと歓喜に満ちた回復です。
主の回復は、
ネゲブの川のように訪れます。
乾ききった地に、
予測できないかたちで、
突然、力強い命の流れが走る。
それは人が起こす回復ではなく、
主ご自身が、主の時に与えられる回復です。
この回復は、
最初から喜びに満ちている歩みではありません。
涙をもって、
種を蒔くところから始まります。
結果が見えない中でも、
主を信頼して蒔かれた涙の種は、
やがて、
喜びの歌とともに刈り取られます。
泣きながら出て行った者は、
喜びの声とともに帰って来る。
その腕には、
喜びの束(SHEAVES OF JOY)が抱えられています。
それは、
人の成果ではなく、
主がなさったこととして受け取る恵みです。
THE LORD IS THE BUILDER
― 建てるのは主、私たちは主に身を置く ―
この歩みを貫く結論は、聖書がはっきりと語っています。
「主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の働きはむなしい。」
この詩篇127篇で問われているのは、
どれほど努力したかではなく、
だれが建てているのかということです。
人が計画し、人が支え、
人が完成させる歩みであるなら、
それはどれほど熱心であっても、
主の前では「むなしい」と聖書は語ります。
しかし、主ご自身が建てておられる歩みであるなら、
人の弱さや不完全さがあっても、
その働きは主の御手の中で確かに保たれます。
私たちが目指しているのは、
何かを成し遂げることや、
目に見える成果を積み上げることではありません。
主が建てておられるという事実に信頼し、
その御業に参加させていただくことです。
主が建て、主が守り、主が完成させられる。
この真理に立つとき、
私たちは焦る必要も、誇る必要もありません。
ただ、みことばに聞き、
主のなさることを見守りながら、
与えられた一歩を忠実に踏み出していきます。
それこそが、
この歩みの揺るがない土台です。
ONE HEART , ONE BRIDE
ー 1人のキリストの花嫁として ー
「キリストは、
隔てられていた二つのものを一つとし、
その間にあった壁を打ち壊されました。
それは、二つのものを、
ご自身のうちにあって、
一人の新しい人として創り出すためでした。
さらにキリストは、十字架を通して、
両者を一つのからだとして神と和解させ、
敵意そのものを、
十字架によって終わらせてくださいました。」
ー エペソ人への手紙2章 ー
. . . . . . . .
聖書が描いている回復の最終的なかたちは、
それぞれが強くなることでも、
ばらばらの歩みが並ぶことでもありません。
キリストにあって、
ひとつの心(ONE HEART)とされ、
ひとりの花嫁(ONE BRIDE)として整えられていくことです。
私たちは、異なる背景や歩みを持ちながらも、
同じ主に贖われ、
同じ十字架のもとに集められています。
中心にあるのは、私たち自身ではなく、
十字架にかかり、よみがえられた
イエス・キリストご自身です。
教会は、完成された集まりではありません。
しかし、キリストの愛によって結ばれ、
主の真実によって整えられながら、
一人の花嫁として備えられていきます。
それぞれが主の前に立ち、
それぞれが悔い改めと恵みの中を歩みながら、
ひとつの心で主を礼拝する民とされていく。
この歩みもまた、
人の力による一致ではなく、
主ご自身がなしてくださる御業です。
「私は神のもとから、天から、
聖なる都、新しいエルサレムが降って来るのを見ました。
それは、
夫のために整えられた花嫁 のように、
用意され、飾られていました。」
ーヨハネの黙示録21章ー
私たちは、その完成を急ぐのではなく、
主が整えてくださる時と方法に、
静かに身を委ねて歩みます。